伏見のお稲荷さん 【作者:田中由香里】

千本鳥居が世界的にも有名な伏見稲荷大社。

正月には実家の商売繁盛を祈願して、両親とともにお参りするのが恒例だ。

それは、2年前の正月。

「間もなく、ふしみいなり、伏見稲荷です」

アナウンスが流れる。

「父さん、降りるよ」

なかなか席を立とうとしない父。

「どうしたん?気分悪い?」

やっと立ち上がったかと思うと、フラフラとよろめき転ぶように倒れこんだ。

ホームにいた駅員さんが慌てて駆け寄り、父の両脇を抱え電車から降ろしてくれた。

「大丈夫。ちょっとめまいがしただけです。すんません」

「もう、びっくりさせんといてよ」

母は、不安そうに父の腕を握った。

「ちょっとベンチで休もうか」

「もう、大丈夫や。とりあえずお参りしにいこ」

三が日を避けたとはいえ、人は多い。

私は父の右側を支えるようにして歩く。

やはり何かおかしい。

左足がしっかり動かなくて、左側へ傾くように歩いている。

「今日はやめとこか」

それでも、父は頑なにお参りだけはしたいと言い張る。

鳥居をくぐる。

足元を白い子犬が通りすぎた気がした。

「こんなところに犬?」

なんだか、胸騒ぎがする。

「私が父さんの分もお参りしてくるから、社務所で待ってて」

「お父さん、そうしよう。私もここで一緒に待つし。京子に行ってきてもらおう」

父を説得し、私は急いで本殿に向かう。

「父さんが大きな病気でありませように」

その足元をまた何かがまとわりついてきた。

気にはなったが、今はそれを確認する気持ちの余裕はない。

いつもよりも短くお参りを済ませ、両親のもとに戻った。

「大丈夫?タクシー呼ぶわ」

最近観たテレビ番組を思い出した。

小脳が障害されると平衡感覚に影響がでるって言ってたっけ。

もしかして……。

三十分以上が過ぎ、ようやくタクシーが来た。

タクシーに乗ろうとするそのとき、はっきり見えた。

すぐに消えたけど、白い狐に間違いない。

病院に行くべきか、それとも家に帰るべきか。

タクシーの中でも、私の不安が消えることはなかった。

岡崎公園に着き、タクシーを降りる。

信号が青にかわった。

横断歩道で父がふらつき、座り込んで立ち上がれなくなった。

「様子みてたらあかん!やっぱり救急車呼ぶね」

「そんな大げさな。救急車なんて呼ばんでええ」

父の言葉を振り切り、私は一一九と携帯のボタンを押した。

救急車のサイレンがだんだん大きくなり、私たちの前で止まった。

どうか、どうか、父さんを助けてください……。

救急車の後ろをタクシーで追った。

病院に着くと、母が検査室前の長椅子に座っていた。

私もその横に腰かけ、母の背中に手のひらを当てた。

たくさんの扉からは電子機器の音が聞こえ、看護師が忙しく行き来する。

その中を母と不安な気持ちで待つ。

覚悟せなあかんのかも……、そんな想いがよぎる。

「坂井義男さんのご家族の方こちらへ」

とてつもなく長い一時間だった。

「ここ、右の小脳。この部分、軽い脳梗塞を起こしています」

母とレントゲン写真を見て、息を呑む。

「幸い発見が早かったので、リハビリすれば麻痺もほぼ残らないでしょう」

「ありがとうございます。よかった。もう悪いほうにしか考えられへんかったから……」

母が涙声で先生にお礼を言う。

先生の話では、ここ最近めまいのような症状やつまづいて転ぶことが何度もあったと父が話したそうだ。

このとき、小さな脳梗塞が起こっていたのかもしれない。

そのことをなぜ話してくれなかったのか。

毎日一緒にいたのにどうして、気がつかなかったのか。

心配をかけまいと思ったのか、自分が転んだことを恥ずかしくて言えなかったのかもしれない。

大学病院に運ばれ、専門医の治療を受けられたことは不幸中の幸いだった。

この機会に、脳の検査をしっかりし、リハビリを終えて、父は二ヵ月ほどで退院できた。

今年は、ニ年ぶりにお稲荷さんに初詣に来ることができた

「あのとき、京子がいてくれて本当によかった。私たちだけやったら、手遅れになってたわ」

「そやな。そしたら、こうして初詣にも二度と来られへんかったな。おおきに」

二人とも嬉しそうだ。

「毎年お参りにきてたから、きっとお稲荷さんが守ってくれはったんやわ」

お賽銭を入れる。

二礼二拍手。手を合わせた。

「この一年もみんなが健康に過ごせますように」

そのとき、また私の足元を何かがすり抜けていった。

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作者:田中 由香里