眠りの向こうに

2023-05-31
作者:戸田 友里

今にも雨が降り出しそうな分厚い雲に覆われたような薄暗い中に彼女はいた。

肌に触れる空気も冷たく、彼女が不安と諦めの中にいるのが伝わってくる。

「くるみさん。こんにちは。トキコです。私と少しお話ししましょう」

「……」

少し間があってから、わずかに柔らかな風が吹いた。

よかった…受け入れてもらえたようだ。

「嫌な気持ちになったり、辛いと思ったら無理に話さなくていいのよ」

「……」

慌てず彼女の気持ちの揺れに添って話を始める。

私は今、くるみさんの意識の中にいる。

眠っている間に開放される潜在意識の中だ。

私に見えているのは、もやがかかった中に膝を抱えて浮かんでいるくるみさんだけ。

肌で感じる空気の重さや温度は、くるみさんの心の状態そのものを表している。

二ヵ月前からクリニックに来るようになった早坂くるみさんは何ヵ月もまともに眠れていない。

不眠症に悩む女性のための睡眠専門のこのクリニックでは、治療の一つとして睡眠中の意識に呼びかける「潜心療法」を取り入れている。

不眠につながる心の深くに潜むマイナスな意識をプラスに変えることで、前向きな気持ちを取り戻し、安眠に導くという治療法だ。眠っている間に心の深い部分にまで潜る必要があるため、生活習慣や就寝時の環境改善でも対応できない重症者の場合に限って試みる。

そして、この治療法には医師と患者との間に強い信頼関係が築けていることも重要だ。

潜在意識は感情や本能といった普段は意識していない領域のため、起きているときには「治療だ」と理解できていることでも、いざ潜ってみると拒絶されることがある。

場合によっては、感情が雨や風、雪になって降ってくることもある。

逆に、温かい空気に包まれたり、月の光のような明るさを感じるときは良い兆候だ。

五感を最大限に研ぎ澄ませて、くるみさんの気持ちの変化を感じ取り、話を進める。

くるみさんが眠れなくなった原因は、仕事上でのミスだった。

自分のミスのせいで、何ヵ月もかけて積み上げてきたチームの努力が水の泡になったことに責任を感じていた。

何度かカウンセリングをおこない、いろいろと試してみたが眠れるようにならなかった。

仕事上のミスは、誰にでも起こりうるし、くるみさんの会社でも彼女一人を責めることはなかったという。

が、却ってそれが彼女にはいたたまれなかったのかもしれない。

周りがいくら大丈夫だと言っても、どれだけ説得しても、それを頭では理解できたとしても、彼女は心の深いところで自分を完全に否定してしまっていた。

深い闇から抜け出すには、ほんの少しだけでも自分を認める気持ちを思い出してもらうしかなかった。そして、それは眠っている間にしかできないことだった。

薬で眠っているくるみさんと私のヘッドギアは二人の間にある最新の機械でつながり、脳に電気信号を送っている。

脳を休ませるはずの睡眠中でも潜在意識は働いているので、声をかけると返事をしたり、意識に触れることができる。

「くるみさん。辛い経験をしたわね。でももう自分を許してもいいのよ」

「でも、私にはその価値がないんです」

「あなたは、ほかの人たちが何か失敗をしたら許さないの?」

「そんなことはありません。でも私にはできることがないんです何も……」

霧雨のような冷たい雨が肌に触れる。

私は、ゆっくりとくるみさんの心が言葉を受け入れるのを待ってから続けた。

「誰かが困っていたら、くるみさんは何かしてあげたいって思うんでしょう」

「は、はい…」

「じゃあ、くるみさんもみんなを信じてみない?きっと、みんなもくるみさんを助けたいって心からそう思っているわ」

「……」

少しずつ心が解きほぐされていけばいい。ほんの少し、自分を認めることができたら…。

今日はこれくらいにしておこう。そう思ったときだった。

霧雨がやみ、薄くなった雲の向こうから月あかりのような一筋の光が射すのが見えた。

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