リアルすぎる温泉

2023-03-15
作者:戸田 友里

「おかえりなさい、坂本様」

受付のスタッフがいつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれる。

睡眠以外のほとんどの時間を殺伐とした職場で過ごす僕に絶大な癒しをもたらしてくれる貴重な瞬間である。

カウンタ-に埋め込まれた画面にメンバーズカードをかざす。

「いつもありがとうございます。お入りになる前に必ずモニターの確認をお願いいたします」

画面を見ながらロックを外し、いつもと同じように注意を伝えてくれる。

「はい、大丈夫です。じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃいませ」

受付の右手側にあるドアを開けて中に入る。

入ってすぐにはフリースペースがあり、ソファや自販機が置いてある。大きなモニターにはその日のニュースが流れている。

すでに何人かの人が飲み物を片手にくつろぐ様子が見てとれた。

小一時間もすれば、同じようにスッキリとした顔でここにいるんだろうと思いながら通り過ぎ、予約した部屋の前に立つ。

再度カードキーをかざして中に入る。

部屋の中心には全面ガラス張りの浴室がある。

ここは予約制の完全個室のスパ。

ただ、どこにでもあるようなスパではない。

24時間いつでもどこでも全国各地の温泉地をリアルに体験できる空間だ。

浴室をぐるりと囲むガラスには特殊な加工が施されていて、選んだ場所を映し出すことができる。それもリアルタイムに。

もちろん泉質も、無色透明のお湯から白濁したもの、炭酸水素温泉から硫黄泉、すべて現地と同じものが楽しめる。

360度リアルな景色が広がるので、天候の悪い日は、露天風呂ではなく屋内を選べば問題ない。温泉宿の大浴場にしてもいいし、いっそのことまったく別の場所を選びなおしてもいい。

細かい条件変更はこの「温泉のモト」パネルでできる。

今日は、海を見ながらゆっくり楽しもうと「白浜温泉」を予約しておいた。

海の真ん中で温泉を楽しめたら…運が良ければ夕日を眺めながら入れるかも……そう思い、いつもより少し早めの時間に来た。

「あ、モニター見るの忘れたな……」

でもまあ近畿地方の天気は崩れる心配がなさそうだったから大丈夫だろう。

そのまま、ガラスドアを開けて入り湯船に浸かることにした。

「あ~、気持ちいい~!」

熱すぎずぬるすぎず、丁度良い加減のお湯が隙間なく体を覆いつくす。

こわばった緊張をゆっくりとほぐし、1週間の疲れを溶かしていく。この感じが好きだ。

目の前には海が広がり、たった一人で温泉の海に浮かんでいるようだ。

水平線の向こうに夕日も見える。

やった!予想通り。

しばらく何も考えずにぼーっと海を眺めていた。

このスパに出会えて本当によかった。

2年前まで、寝る暇もなく憑りつかれたかのように働いて、とうとう体を壊してしまい、しばらく不眠治療に通うようになった。

そのときに健康でいられることのありがたさを嫌というほど感じ、睡眠と入浴の関係についても学んだ。

質の良い睡眠が得られたら、仕事のパフォーマンスが上がり、病気のリスクも軽減されると知って、最初は寝具を変えたり、ナイトキャップを用意したり、お風呂に入る時間を調整したり、アロマオイルを使ってみたり……いろいろと試してみた。

どれもそれなりに効果はあったが、感動するほどの変化は感じられずにいた。

そんなときに、出会ったのがこのスパだった。

気軽に行けなかった温泉がいつでも楽しめる。そんな贅沢が味わえることにワクワクした。幸い、遊ぶ時間もなく働いていた僕にはそれなりの貯金もあったので、ちょっと高めの会費も払えてしまった。

これまで頑張ってきた分のご褒美だと思って気持ちが楽になったのもあったのだろう。スパを楽しむようになってからよく眠れるようになったし、今も変わらず忙しいがすこぶる順調だ。

そんなことを考えていたとき、海面から何かが飛び出してくるのが見えた。

トクンと心臓がはねた。

フリースペースの大きなモニターには昼からずっと

「白浜沖にサメ!?」

の文字が映し出されていた。

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