倖せの記憶

2022-03-10
作者:池邨 麻衣

ある日、兄からメールが届いた。

「母さんが認知症になった」

たった一文だけのメール。

だが、私に衝撃を与えるには十分すぎる内容だった。

普段は京都で夫と2人の子ども、4人で生活しており、子育てに追われて実家には帰れていなかった。

両親のことは同居している兄夫婦に任せっきりにしてしまっていた。

週末、子どもたちを夫に任せて様子を見に実家に帰ってみることにした。

「ただいま、全然顔出せなくてごめんね」

そう言いながら、居間に座っている母親に近寄るが反応がない。

「お母さん?」

反応しない母親を不思議に思っていると、兄が近寄ってきた。

「美沙、おかえり」

「母さん、今の美沙の姿がわからないんだと思う……」

「昔のこととかはまだ覚えているんだけど、最近のこととかは忘れっぽくて」

兄が気まずそうに言う。

「え、そうなの……」

思っていた以上に母の認知症が進んでいたことに驚きが隠せない。


家に帰ってからも衝撃が頭から離れなかった。

そんな私に気づいた夫がホットコーヒーをそっと置いて話し掛けてきた。

「お義母さんの様子、どうだった?」

「それが……結構認知症が進んでるみたいで……」

「私のこともよくわかってなかったみたい」

今日の出来事を伝えながら、はぁ……とため息をつく。

母が自分のことをわかっていなかったこと。そして、そうなるまで兄夫婦に任せっきりにしてしまっていたことに自己嫌悪が止まらなかった。

そんな私をみかねた夫がある提案をしてくれた。

「昔のことなら覚えてるんだよね」

「なら、回想法をやってみたらどうかな?」

「回想法? 何それ?」

初めて聞く言葉に頭にハテナが浮かぶ。

「ボクの職場でも取り入れてる方法なんだけど……」

そう言って臨床心理士として働く夫はその方法を教えてくれた。

要は、昔の出来事を思い出すことによって精神安定や認知機能の改善ができるという「脳トレ」のようなものらしい。

「昔のアルバムを見返したり思い出の場所に行ってその当時の話をしたらいいってことね!」

「そうそう! 昔のことを思い出すだけでも感情が蘇って脳が活性化するから、記憶の筋トレとしていいんだよ」

「ありがとう! 早速、やってみる!」

夫に話を聞いてもらって、少しスッキリした。

教えてもらった内容をすぐさま兄にメールをした。


それから毎週末、休みを使って実家に通うことにした。

実家に着くと母にいろんな思い出話をしてみる。

幼稚園の発表会で母が作ってくれた衣装の話や、小学校の運動会での一等賞の話、中学時代の兄の反抗期事件など。

アルバムを見せたり、一緒に散歩がてら懐かしい場所を歩いたりしながら話をしていく。

兄と一緒にいろんな思い出話をしながら、母にも少しずつ話を振ってみる。

最初はあまり反応がなかった母だったが、少しずつ笑顔が増え、会話が続くようになってきた。

だが、まだ私が娘の美沙だということはわかっていない。


根気よく毎週末通い続けた。

平日は仕事、休日は実家通い。それに加えて家事や子育てに追われる日々にメンタルがめげそうになる。

子どもたちが寝たあと、夫がホットコーヒーを入れてくれて私の話をうんうんと聞いてくれるのも習慣になっていた。

それによって、私のメンタルはギリギリ保たれていた。

ある週末、夫と子どもたちを連れて実家を訪ねた。

母は子どもたちのことをよくわかってないようだったが、楽しそうにホームビデオを観ながらおしゃべりしていた。

その様子を見ていたら、兄から「最近は母さんの物忘れが減ってきたように感じる」と言われ少し安心した。


母を子どもたちに任せて、夕飯の準備をしていると

「美沙ちゃん、今日はお泊りできるの?」

母親が台所にやってきて、私に尋ねた。


「え……お母さん……」

久々に聞く、母が私の名前を呼ぶ声。

涙が溢れて止まらなかった。

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